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◎「座敷の思想」を好む 晩年の坂口安吾の御用達。毎日のように酒を運んだ。老舗「書上酒店」の三代目。明治初期からの黒びかりのする店舗の奥座敷で最期を迎えた。阿部光作。享年七十歳。二○○一年も残すところあとわずかの十二月十六日二十一時卒。 終戦のとき阿部さんは十四歳。太田の空襲のときは、南の空が燃え上がったという。大八車に家財とおかあさんを乗せて五キロ以上の坂道を避難した。 夏。戦争が激化していく最中、阿部少年は店の建物の前から敵機ではない飛行機を上空に発見した。太田の飛行場から戦場へと運ばれる一人乗りの戦闘機だった。パイロットは阿部さんのお兄さんの友人。桐生出身。若者は故郷に別れを告げるように、何回も何回も上空を旋回した。翼を大きく揺らしながら。 「そりゃあ、さよならって言いたかったんだな、今考えると」 「書上酒店」が「大風呂敷」となって、その店舗のカフェでコーヒーを飲みながら、阿部さんはそう言った。若者は結局戻ってこなかった。 阿部さんは人間が不条理に死ぬこと、人間の愚かしさから生まれる悲劇についてこだわった。アウシュビッツ、水俣、原子力事業、ゴルフ場などの乱開発、水汚染、ごみ問題、教育の荒廃、戦後責任問題…。丸山真男の「通低音」という表現を好んだ。表面上の問題は、すべて日常をいかに生きるかという問題にほかならないと言い切った。 「座敷の思想」という言葉もよく使った。政治家も学者もモヒカン刈りの少年も男も女もゲイも、酒屋の座敷で「おだをあげた」。よく論争し、よく笑った。めしを囲み、酒を酌んだ。人もうつろい、テーマも百出したが、生活の場所であった「座敷」の視点は一貫した。「座敷の敷居」が高いか低いかは、来る者の地位や経済状態ではなく、心意気がものをいった。 「阿部さん逝く」の一報は、かつての座敷を盛り上げた仲間に伝えられた。すぐさま集まった彼らによって、阿部さんは、その座敷、つまり大風呂敷の店内に運びこまれ安置された。みな宴会の準備をするようにいそいそと働いた。家族でもないのに枕元で共通の思い出を語り合った。 決して聖人ではない。家庭も無い。頑固で効率の悪い生き方だったかもしれない。しかし、阿部さんは、そしてこの座敷は、私の人生の扉であった。群馬の桐生で生きていくことを願ったのは、ここがふるさとだからではなく、阿部さんと出会ったからだ。 いてつくような夜だった。深夜、ひとり阿部さんの眠る築百四十年の木造家屋の前に立ち、空を見上げた。 そして、そのとき私が見たものは、満天の星ではなく、西の空に向けてゆらゆらと飛び去る一機の一人乗り飛行機だった。すぐ横では坊主頭でランニングシャツ、たれ目の少年が、夏空に向けて「おーい、おーい」と手をふっていた。 (上毛新聞 2002年1月19日掲載) |