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民俗研究家 
板橋春夫さん
(伊勢崎市今泉町)

 【略歴】国学院大学卒。76年、伊勢崎市役所に入り図書館、市史編さん室、公民館を経て、98年から文書広報課。80年に群馬歴史民俗研究会を設立し現在代表。98年から日本民俗学会理事も務める。


相互扶助の精神伝え

◎六合村の「病人かご」

 信州・別所温泉の北向観音に、箱車が奉納されている。明治時代、歩行困難の難病者が善光寺と北向観音に祈願したところ治癒したので、乗ってきた箱車を記念に奉納した、とある。信仰と温泉医療を物語る奉納物といえよう。

 吾妻郡六合村根広の観音堂に「病人かご」がある。人を乗せるための簡素な竹製かごであるが、救急医療と近隣社会を考える上で、この病人かごは貴重な生活文化遺産である。

 現在、急病人が出ると電話一本で救急車が来て病院へ運んでくれる。救急救命士が、病院と無線連絡をしながら必要な措置を行い、病院では医者と看護婦が待機して。手術や治療の救急医療体制がとられる。

 昭和三十年代までの山間村落では、病気になると薬草や売薬で治療をし、治らないとき初めて医者に診てもらった。医者にかかる比率は低く、山野に自生する薬草に重きが置かれ、富山の置き薬への期待はきわめて大きかった。

 六合村は三十七年まで無医村で、そのころは隣接する草津町に二つの医院があり、長野原町に病院が一つあっただけである。急病人が出ると山道を越え、草津の医院へ行った。根広から草津町までは約八キロ。急坂がたくさんあり、谷底を歩いて行くので何人もが交代で病人かごを担いだ。男性が担ぎ手に出るが、男手のない家は女性が弁当を背負って行った。村人は医院の玄関先で病人の容体を案じ、まどろみもせず真剣な表情で待ち受けた。

 ときには臨終さえ医者に見てもらえず、死後、空っぽの病人かごが村人に担がれた。草津町の医院に着くと、医者はだれも乗っていないのを確かめて、死亡診断書を書いたという話も伝わる。

 海野金一郎の『飛騨の夜明け』には、医者とは死体検案書を書くためにある、と思っている村人の話が出てくるが、病人かごを使用するときは病状が悪化し、乗ったら家へ帰れない悲しい場合もあった。根広の病人かごは、三十三年に使われたのが最後であった。そのときは尻焼温泉まで車が入れるようになっており、病人かごで降りると、そこに長野原町の病院からの自動車が来ていたという。

 中之条町歴史民俗資料館に「山駕籠」と書かれた病人かごが展示されている。「素封家の人々が乗ったり、村の急病人などが乗せられて町方の医者に運ばれたりするのに使われたようである」と説明があり、形状は根広の病人かごと同じである。

 渋川市中野のものは「富貴原(ふきはら)の病人かご」として『渋川市誌民俗編』に紹介されている。神奈川県足柄上郡山北町にも同様の竹製かごが現存し、静岡県の山間部などからも病人かごが報告されており、全国の山間各地に類似のかごがあったことが知られる。病人かごをはじめ、背負ったり戸板に乗せて医者に診てもらうため、地域社会の人々は相互に助け合ったのである。

 現代の救急医療は、短時間に近代的医療が受けられる搬送システムだが、私たちは病人かごを担いで真剣に病人を思いやった村人たちの相互扶助の精神を、忘れてはいけない。


(上毛新聞 2002年1月12日掲載)