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◎田中正造の直訴 今から約百年前の一九○一(明治三十四)年、師走の世情は、田中正造が明治天皇に直訴した事件で、大揺れしていました。十日の直訴当日には、前橋の街に号外が出ています。 田中正造氏 聖駕(せいが) に直訴奉らんとせり。 田中正造氏は本日午後一時(実は午前十一時二十分ごろ)帝国議会開院式より 天皇陛下 御環幸の際虎の門内に於て、鉱毒に関する請願書を 奉呈せんと欲し 御警衛の警官の為め捕はれたり 「午後四時三十分東京特発」でした。全国各地へ即日報じられ、「空前絶後の大椿事(ちんじ)」と世人は驚き、「鉱毒被害民を救え!」の世論は沸騰しました。 十二月二十七日には、帝都の学生生徒を主体に、「鉱毒地視察修学旅行」が行われ、千百余名が、特別列車で被害地に向いました。内村鑑三、木下尚江らが先導で、なかには群馬師範の学生もいました。正造の真の狙いは「憲法、法律ヲ正当ニ実行」させることでした。 窮した桂太郎内閣は、勅令四五号による「鉱毒調査委員会」を設置して対応しました。結果は鉱毒根絶ではなく、鉱毒水を貯溜(ちょりゅう)する遊水池造成でした。渡良瀬川下流の谷中村を廃し、村民を追い出したのです。正造は「谷中村を滅ぼすことは、日本を滅ぼすことだ」と猛反対しましたが、上流域の被害民は賛成に転じ、運動は消えました。私なども、過去の事件と思い、無関心で育ちました。 だが、待矢場用水から鉱毒は流入し続け、取り入れ口の毛里田村(太田市)は、百年余も悩んできました。鉱毒根絶同盟会を組織して、銅山に鉱毒対策や損害補償を求める行動を展開しました。私たちが「渡良瀬川鉱毒シンポジウム」を始めたとき、足尾銅山は採鉱(閉山と称する)を止めました。一九七三(昭和四十八)年のことです。 板橋明治さんを中心に、同盟会は苦闘を続け、一応の結着を告げたのは一九九九(平成十一)年で、「公害防除特別土地改良事業竣工記念碑」が建てられ、碑文の終わりに、 渡良瀬川に鉱毒流れて 父祖 五代 苦悩の汚染田 いま改良なる との板橋さんの感慨が刻まれています。 去年の私は、直訴百年で終始しました。二月に佐野のシンポで始まり、十二月十六日に上野の東京文化会館で開いた東京のつどいで締めくくりました。その間に、私は朗読劇『雲居撼るがす叫声』をつくり、直訴事件を訴えることにしました。和田能久さんや「つゝじ小劇場」「グループ桜石」の皆さんが、館林・佐野・大泉で公演しました。前橋でもやりました。東京は高橋左近さん構成で、関係劇団の方々が熱演しました。 直訴は石川半山、幸徳秋水、島田三郎らの理解協力によったので、正造の個人プレーではなかった事実を伝えたかったのです。ぜひ、どなたか取り組んでいただければ幸いです。 (上毛新聞 2002年1月4日掲載) |