| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 46 五十嵐吉蔵 |
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一九三五(昭和十)年十二月十一日、県の来年度予算を審議する県議会。五十嵐吉蔵は県の蚕糸政策をただした。県議二期目、三十四歳だった。 「蚕糸業県ブロック経済」とは、他府県の資本の支配を受けることなく、県独自の立場と力によって県自ら蚕種、桑苗、繭、生糸を生産・配給・加工することだった。 日本の蚕糸業は一八五九(安政六)年の横浜開港後、急速に生産が拡大し、生糸は日本の最も重要な輸出品となった。外貨を獲得、日本の近代化を支えた。 だが、第一次世界大戦を境に蚕糸業は苦難の道を歩み始める。戦後恐慌による糸価暴落、関東大震災では生糸を焼失した。本県蚕糸業も大きな影響を受け、農家に繭代金を支払えない製糸業者が続出、農村の疲弊は極まった。 さらに一九二九(昭和四)年、米国で始まった世界恐慌は米国市場に全面的に依存していた日本の蚕糸業に大きな打撃を与えた。人絹糸の普及が生糸需要の減少に一層拍車を掛けた。 五十嵐は質問をこう締めくくる。 「県と業者が踏み込んで問題の解決を図れば難問題ではない。ひとり群馬県の蚕糸業のみでなく、日本の蚕糸業統制という極めて大きな事業の完成に大きな刺激となり、貢献すると考える」 本県こそ、難局にある日本蚕糸業を救うリーダーになれる−。県当局を?咤(しった)激励する声が、議場に響いたに違いない。 県立歴史博物館の手島仁専門員は「県当局の施策を批判するだけの議員が多い中、自らの政策を示した。実現することはなかったが、当時の本県と日本を取り巻く経済状況を熟知した卓抜した考えだった」ととらえる。 太平洋戦争開戦直後の四二年、五十嵐は国政に転じる。翼賛会推薦で衆院議員に当選したため、戦後は公職追放によって占領期に政界で活躍することはなかった。 だが、公職追放が解除された翌年の五二年、衆院議員に再選、以後三回連続で当選を果たした。この間、日本蚕糸業会理事など多くの蚕糸業関係の役職に推され、蚕糸業の立法や施策には自ら原案に筆を入れ、中心となって活躍したが、五九年六月、現職のまま亡くなった。 「君とは所属政党を異にし、過去幾たびかの選挙で相争ったのでありますが、いささかも政敵という感じがせず、農村問題について、あるいはまたわが国の将来について、お互いに腹を打ち明けて語り合ったということのみが思い出されるのであります」 六月三十日、衆院本会議場で追悼演説をした茜ケ久保重光議員は声を詰まらせ、壇上に泣き伏し、震える声で演説を続けた。すすり泣きの声が議場のあちこちから漏れたという。 「翼賛会出身にもかかわらず、戦後も議席を守り続けた。農民が党派を超えて支えた、農民の目線に立った地域のリーダーだった」(手島専門員) 五十嵐が学んだ県立蚕糸学校(現安中実業高校)は蚕糸業の衰退、少子化など時代の流れの中、公立高校再編の一環で本年度で閉校する。 国家の栄はこれぞこの道/養蚕製糸 繰るや糸すじ/四海めぐりて 五州を結ぶ 二五(大正十四)年に制定され、現在は歌われていない最初の校歌の三番の歌詞だ。 本県の蚕糸業が苦境にある中、この歌詞を体現しようとした人こそ五十嵐だった。 (田中茂) 1901(明治34)年、佐波郡豊受村上蓮沼(現伊勢崎市上蓮町)生まれ。県議会副議長などを務めた栄三郎の長男。県立蚕糸学校(現安中実業高)卒、明治大学に進んだが中退。33(昭和8)年、栄三郎の死去に伴って県議選に立候補して初当選、三選を果たした。42年、翼賛会推薦で衆院議員に当選。戦後、公職追放となったが、51年に解除され、52年、改進党から衆院選に立候補して当選。保守合同後は自民党に所属し、連続四期の当選を果たす。組合製糸「群馬社」の理事、専務理事、副社長を経て代表理事、日本蚕糸業会理事などを歴任した。53年にはイタリア・ミラノで開かれた国際絹業大会に日本代表として出席、世界各国の代表に日本の現状を訴えた。59年、衆院議員現職のまま死去。57歳だった。 (上毛新聞3月9日掲載) |
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