「ぐんまルネサンス」 第2部
45 飯塚春太郎
 
衆議院時代の1928年12月に撮影された肖像
 〈一本の、不正の糸も、織り込まぬ、織物つくる、人の貴さ〉

 群馬県中学校(現前橋高校)で共に学び、後に東洋大学長となった中島徳蔵(一八六四−一九四〇年)は、親友の飯塚春太郎の逝去に接し、長い追悼文を残した。その締めくくりとして、飯塚がモットーにしてきた「製品即(すなわ)ち人」をほうふつさせる感想をつづった。

 インド商人との商談の最中、「傷がある」「不良品である」との申し出に、飯塚は「飯塚の織物は日本の製品である以上、絶対に不良品はない」と言うなり、その場でストーブに絹を投げ入れ、激怒したという。

 信用を第一に生き抜いた飯塚の実像を生々しく伝える逸話である。
 
 貧しい家庭ながら、父の二葉は「これからは学問」と時代を読んだ。飯塚は東京法学院(現中央大学)に進む。同窓の多くが官吏へと栄達の夢を追い求めたのに、飯塚は郷里に帰ってきた。

 中島はこう回想している。

 〈(飯塚は)我が村は芝地が多い、他日之を開拓植林して、自ら利し、村をも利してやるつもりだと言っていた。彼が実利を愛し、郷党を愛する至情は天性に出ている〉

 桐生に本店を置いていた第四十銀行の専務、大沢福太郎(一八六七−一九三五年)は飯塚に当座貸し出しとして五万円まで黙って融資した。担保を求められた飯塚が「でっかい頭だけ」と語ったエピソードがある。大沢はおそらく、学問がありながら郷里に帰って、地場産業に取り組む男の気概を買ったのだろう。

 大規模な新工場を一九一〇(明治四十三)年に建設する。スイス製絹布力織機百余台、手織機百五十余台を備え付けた。輸出向け薄地の超高級絹織物「スパンクレープ」「サテンクレープ」は、飯塚の独創品として知られる。

 「相手国から信頼される織物は、完全な工場組織が必要で、生産設備の機械器具は西洋製がすぐれている」

 信用第一、言行一致の生き方で知られる飯塚はこう語ったという。桐生での、個人経営工場の先駆者としても大きな足跡を残した。

 一八九九年六月、推されて桐生織物同業組合長に就任。一九二五年まで途中何度か職を離れたが、通算十年、織物産地の指導者として、産地の足腰を強化した。

 「従業員は使えるだけ使う」のが常識だった時代に「公休日」を定めた。飯塚の孫、将春の妻、加津美さん(75)=桐生市広沢町=は「会社の従業員を家族と同様に大切にしたことが伝わっている」と話す。外国商館と交渉を重ねて、乱造を防ぎ、過当競争を避ける「注文制」を確立したのも大きな功績だった。

  飯塚は一九二〇年から七期十八年、代議士を務めた。浜口雄幸、若槻礼次郎、井上準之助ら当時の大物政治家からも一目置かれた存在で、民政党を支える中心的な政治家でもあった。

 民政党総裁の町田忠治は追悼文でこう書いた。

 〈君は機業を業(なりわい)とし、貿易に寄与せるところ多かりしは人の知るところなるが、その事業の経営にあたっては、決して政府の保護援助等に依頼するがごとき事なく、……ますます君の高風を追景するの念、切なるを覚ゆ〉

 行政の保護、助成を求める風潮が現代をも支配している中で、飯塚が貫いた「独立自尊の念」に学ぶことは多い。

(山脇孝雄)


 1865(慶応元)年1月、下広沢村の賀茂神社神官、二葉の長男として生まれる。東京法学院(現中央大学)英法科を90(明治23)年に卒業、帰郷して、弟の宇麻志と織物業を始める。

 輸出用高級絹織物の将来を見込み、需用者(消費者)の風俗や好みに関心を示す。1900(同33)年にパリ万国博覧会をはじめ欧州や米国の織物工場を視察。07年、10年にも中国、欧州、インドなどを回っている。

 桐生地区の教育や工業発展にも尽くし、渡良瀬水力発電、両毛製織、桐生高等女学校、桐生高等工業学校(現群馬大工学部)の設立などにも深くかかわった。

 20(大正9)年、衆院議員に初当選し、38年(昭和13)年まで連続7期、戦前の桐生唯一の国会議員として活躍した。同年1月、病没。72歳。

(上毛新聞2月24日掲載)