「ぐんまルネサンス」 第2部
44 大久保佐一
 
原富岡製糸所長と群馬社社長を兼務して本県蚕糸業界をけん引した大久保佐一(斎藤昌子さん提供)
 一九三四(昭和九)年十月二十二日、衝撃的な訃報(ふほう)が県内を駆け巡った。県が主導した組合製糸「群馬社」の重役宿直室で、社長の大久保佐一が自害。官営富岡製糸場の流れをくむ原富岡製糸所長を兼務していた、国内蚕糸業界における功労者の突然の死だった。

 弔問の蚕糸業・政界関係者で群馬社の前は大混雑となり、押し寄せた地元の元総社村民は自分のことのように悲しんだ。生前の大久保がいかに大きな存在であったかを物語る光景だった。孫にあたる斎藤昌子さん(78)=前橋市若宮町=は「商法にたけていたと聞いた。まだ活躍できたと思うだけに残念」と語る。

 原富岡製糸所長としての経営実績を買われ、組合製糸社長に就いて七年目に起きた悲劇。なぜ、自らの命を絶つことになってしまったのか。

 大久保は〇五(明治三十八)年、原合名会社が富岡製糸所を譲り受けたのに伴い、同社の名古屋製糸所から転任。四年後には所長に就いた。

 糸質向上を図るために繭質の統一が必要と提唱。繭の買い入れ先となる周辺地域に無償で蚕種を配布した。並行して蚕糸研究課を新設、学術研究のため外国蚕種の輸入や交雑種の製造に取り組んだ。さらに買い入れ繭の品評会を始め、養蚕農家の顕彰に力を入れた。

 こうした地元農家とつながりをもつ手法は、官営や前所有者の三井時代にみられなかった。農家の意欲を引き出しながら、糸質向上を図るという発想は、経営者としての才覚といえる。

 しかし、第一次世界大戦を境に国内蚕糸業は苦難の時代に入る。戦後恐慌による糸価下落、関東大震災では生糸を焼失した。本県も影響を受け、農家に繭代金を支払えない製糸業者が続出した。

 事態を重く見た県議会は「養蚕家救済ニ関スル建議書」を全会一致で可決。対策を講じるよう要望された百済文輔知事(一八八三−一九五二年)は、大久保ら有力な蚕糸業者を集めて救済策を協議し、二七(昭和二)年に県内をまとめる群馬社を創設した。

 県是の事業を成功させるため、かじ取り役の選考は難航。そこで原富岡製糸所長として手腕を振るい、県製糸同業組合連合会長などの要職にあった大久保に白羽の矢が立った。

 大久保は就任が決まった際、大役を引き受けるに当たっての心構えをこう述べている。

 〈この公益事業のために一大決心をもって努力し(中略)本邦蚕糸業経営組織革新の先駆となり県下蚕糸業改善のため力を尽くしたい〉(一九二七年二月十日付上毛新聞)

 大久保に関する論文を発表している埼玉・大宮中央高校教諭の久保千一さん(59)は、群馬社が導入した多条繰糸機は当時の大営業製糸に匹敵する設備と指摘。「営業製糸の路線を構想したのは、困窮する養蚕農家の救済という目前の課題と県蚕糸業の発展という課題を解決するためだった」と説明する。

 だが、次第に一部組合員の間で幹部に対する不満がたまり、三四(昭和九)年十月上旬に繭売買などの内容に疑義があったとして告発される。一連の騒動は、予定されていた天皇陛下のご訪問が取りやめになる事態へと発展した。

 大久保は、この責任を一身に負う形で自ら命を絶った。本県蚕糸業界の発展を願い、営業製糸と組合製糸という相反する団体を率いたが、結果的に板挟みの状態になってしまった。

 便せん二枚につづられた遺書。文面には命の代償として守りたかったものへの思いがにじむ。

 〈群馬社の改革発展のため現役員、職員、従業員は動揺せず踏み留まり協力一致の御尽瘁(じんすい)を希望す〉

(千明良孝)

 1877(明治10)年、愛知県に生まれる。地元の養蚕伝習所に入って蚕業に関する技術を身につけ、83(同16)年に設立された細谷製糸で製糸業について研究。その後、養蚕製糸の経営、生糸・染色織物などの製造販売を始める。

 原合名会社に入社した後、1905(同38)年に同社が経営する名古屋製糸所から富岡製糸所に転任。09(同42)年には所長に就任する。所内に蚕糸研究課を新設したほか、外国蚕種の輸入に着手するなど優れた経営手腕を発揮した。

 本県製糸業界の中心的リーダーとして活躍するとともに、大日本蚕糸業同業組合中央会議員に推薦されるなど全国組織の要職を歴任。大日本蚕糸会総裁宮から蚕糸業界の功労者として功績章を授与された。34(昭和9)年に57歳で死去。

(上毛新聞2月10日掲載)