| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 43 奥木仙五郎 |
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「仙五郎さんは縦に並んだ二つの輪の乗り物で、倒れないで走っているそうだ」 「そんなことはあるものか」 「横に倒れないわけがなかろう」 自転車が珍しいころのこと。村内で初めて買って乗り回った奥木の姿は、当時の住民には信じられない光景だった。 翌朝、皆はそろって奥木の家を訪ねた。奥木が目の前でさっそうと自転車を走らせると、皆はようやく納得したという。地方の農村に住みながらも、流行に敏感で、進取の気性に富んだ奥木の性格を象徴するエピソードだ。「群馬東村農業協同組合史」に記されている。 この性格が県北部の養蚕農家に大きな変革をもたらした。 山あいにある天然の冷気の吹き出し口は「風穴」と呼ばれ、古くから地元住民が食料や氷の保存に使っていた。明治末期になると、吹き出し口を石垣で囲み、上に建物を造り、内部に蚕種を低温保管する試みが各地で始まった。県内では榛名山の榛名風穴が一九〇三(明治三十六)年、荒船山の荒船風穴が〇五年に完成し、貯蔵を始めた。「低温保存して、ふ化を遅らせれば、夏や秋にも飼うことができる。農家の収入は倍増する」。そんな評判に、奥木のチャレンジ精神はかきたてられた。奥木は県蚕業取締所の吏員を退職すると、吾妻郡で初の蚕種貯蔵用風穴の建造に乗り出した。 名久田村(現中之条町赤坂)の東谷山の中腹に、冷気の吹き出し口があることを知ると、奥木は地元有力者の綿貫形次郎ら有志とともに、さっそく「栃窪風穴」の建造に着手。石垣は南北約八メートル、東西四メートル。その上に板壁とスギ皮ぶきの屋根で地上一階、地下二階の建物を造り、〇七(同四十)年には貯蔵を始めた。 冬に近くの沢が凍ると、その氷を建物内に詰め込み、石垣の間から吹き出す天然の冷気とともに、建物内全体を冷やした。蚕種を付けた「種紙」の貯蔵能力は「約十五万枚」(県蚕糸業史)。荒船風穴に次ぐ県内第二位の規模を誇った。 〇九年九月作製の全国風穴帳に、栃窪風穴の貯蔵実績が記されている。〇七年は七百九十一枚、〇八年三千二百六十枚、〇九年三千三百三十一枚。貯蔵開始当初から、着実に貯蔵枚数を増やした。やがて吾妻郡の養蚕農家が使う蚕種を一手に引き受ける存在となった。 中之条町歴史民俗資料館の唐沢定市館長(76)は「風穴のおかげで、養蚕農家は年に二度、三度と飼育できるようになった。とてもありがたい存在。奥木は吾妻郡の養蚕を発展させた先駆者の一人といえる」と評価する。 奥木の活躍は風穴だけにとどまらなかった。新巻村で初めてヤギや競走馬を飼い、牧草栽培も始めた。クリや柿などの木々も、さまざまな品種を育てて研究した。かごの材料に重宝された竹は、村で唯一、肥料をやるほど本格的に育てた。 「大変な新しもの好きだったそうだ。養蚕を学ぶために東京にいたことがあるので、山村に戻ってからも視野は広かったのだろう」。孫の奥木功男さん(77)=東吾妻町新巻=はそう語る。蚕室や風穴の資料は火事で焼失したが、祖父から受け継いだ竹林は今も山を深緑色に染めている。 (斉藤洋一) 1862(文久2)年、新巻村(現東吾妻町新巻)生まれ。奥木治郎吉の二男。同村の戸長を務めた佐藤家の娘、なみと結婚、養子となり、吾妻第一小学校訓導(教諭)を務めていたが、実兄が亡くなったため、86年に妻と奥木家に戻る。東京・西ケ原の農務局蚕業試験場(現東京農工大)で蚕糸学を学び、県蚕業取締所の吏員となる。退職後、蚕種を冷蔵保存する重要性に着目し、名久田村栃窪(現中之条町赤坂)に1907(明治40)年、栃窪風穴を建造(10年とする資料もある)。吾妻郡や利根郡に広く優良蚕種を供給した。 碓氷社太田組の専務理事、旧吾妻・東村議も務めた。32(昭和7)年に71歳で逝去。生前に村有林の造成に尽力したことが評価され、58年に吾妻・東村有林造成功労者の表彰を受けた。 (上毛新聞2月3日掲載) |
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