「ぐんまルネサンス」 第2部
39 木村 九蔵
 
競進社を設立し養蚕技術を広めた木村九蔵(埼玉県立児玉白楊高校提供)
 武蔵国新宿村(現埼玉県神川町)に養蚕改良競進組を結成し、独自の養蚕技術を広めていた木村九蔵が一八八三(明治十六)年ごろ、高山村(現藤岡市高山)の実家に帰った時のことだ。兄とのよもやま話は、やがて養蚕技術の話に及び、互いに独自の意見をぶつけ合う激論となった。
 
 怒った兄が「そのような考えを持っている競進組の奴(やつ)は家には置けない。すぐ出て行け」と声を荒らげると、木村は「こんな家に居るものか」と門を開け放って闇夜へ飛び出した。

 兄は高山村を拠点に「養蚕改良高山組」を組織、やがて全国一の養蚕学校「高山社」へと発展させた高山長五郎(一八三〇−八六年)である。当時はちょうど「清温育」という飼育法を確立したころだった。木村も後に養蚕学校「競進社」の社長として三万人の社員を従えた人物。二人とも自身の養蚕技術に確固たる信念があった。

 木村は家を飛び出したものの、闇夜の中で頭を冷やし、再び実家へ戻った。玄関の戸をたたくと「誰だ」と高山の声。木村は「競進組の木村は帰ったが、弟の九蔵が来たからあけて泊めてください」と言い、家に入ると兄に非礼をわびたという。養蚕にかける二人の情熱と、交流の一端を示すエピソードは、競進社の後身、埼玉県児玉農業高校(現同県立児玉白楊高校)が発行した「校祖木村九蔵先生伝」に記されている。

 高山家は豪農だったが、五男の木村は幼いころ、隠居した父の家に住み込みで世話をしていた。ある年、近くの養蚕農家から余った蚕種をもらって試しに飼ったところ、周囲はみな不作なのに、木村だけはいい繭に仕上げた。その後、実家に戻り、高山と一緒に育てたものの、二年連続で失敗。二人は悩んだ末、「隠居の家は暖をとるためのたき火をしていたので、快い暖かさで適度に乾燥していた。実家は陰うつだったので蚕病が発生したのではないか」と思い当たった。これが二人の養蚕研究の出発点となった。

 木村は養子に出た後も独自に研究を重ね、七二(明治五)年に「一派温暖育」を発表する。たき火による暖房と換気を組み合わせた飼育法は、高山が八三(同十六)年ごろに確立した清温育とも相通じている。

 「二人が仲の良い兄弟であり、良きライバルだったことは、競進社と高山社が合同で繭の品評会を開いたことからもうかがえる。連絡を取り合い、互いの技術を参考にしたことは十分考えられる」。本庄市教委文化財保護課の鈴木徳雄課長補佐(53)は、県境を隔てて活躍した兄弟を比べながら検証する必要性を強調する。

 競進社は発展を続け、大正初期には全国三十カ所以上の支部を持ち、中国からも研修生を迎えた。また木村は、良い繭を作るためには良い蚕種を用いることが重要だと考え、前橋市の製糸家、勝山宗三郎(一八三一−八三年)から譲り受けた優良蚕種をもとに「白玉新撰(しらたましんせん)」を作り上げ、世に広めた。蚕種を秋から春にかけて低温保存する重要性にも着目し、全国で初めて蚕種貯蔵の会社を設立した。一派温暖育発表後も、良い繭を作るために幅広く研究を重ね、先進の技術を取り入れ、それを惜しみなく人々に広めていった。

 晩年、病床にあっても養蚕への情熱は衰えなかった。「木村九蔵伝」には晩年の様子がこう描かれている。

 〈試験育用の小形の籠(かご)と蚕架で病室内で蚕を飼い、日毎に育ってゆく蚕の状態を観ることが唯一の楽しみ〉〈永い間、病の床にあっても蚕のことについては毎日あれこれと話をしていたが、病気の苦しみについては一度も口にしたことはなかった〉
(斉藤洋一)




1845(弘化2)年高山村(現藤岡市高山)生まれ。幼名は巳之助。兄は養蚕学校「高山社」を創設した高山長五郎。武蔵国新庄村(現埼玉県神川町)の木村家の二女しまと結婚し、木村九蔵と改名。独自の養蚕研究を行い、72(明治5)年に蚕室の暖房と換気を調整して飼う「一派温暖育」を発表。77年に養蚕改良競進組を結成し、養蚕技術の普及に取り組む。84年に競進社と改名し、児玉町(現同県本庄市児玉町)に事務所と養蚕伝習所を移す。やがて宮城、山形、京都、和歌山など県外も含む30以上の支部伝習所を設置、社員登録は3万人を超えた。児玉町には蚕室の理想の形を示す「競進社模範蚕室」を建築した。優良蚕種「白玉新撰」の製造や、日本初の蚕種貯蔵庫建造も行う。98(同31)年に54歳で死去。

(上毛新聞1月6日掲載)