「ぐんまルネサンス」 第2部
33 勝山宗三郎
 
      勝山宗三郎
 〈横浜開港以来 専ラ製糸輸出ノ道ヲ講ジ 或ハ製糸ノ方法ヲ改良シ 或ハ松代六工社ノ後ヲ受ケ之ヲ釐革(りかく)シテ業ヲ士民ニ授クル等 常ニ本業ノ拡張ヲ図リ畢生(ひっせい)身ヲ公益ニ委ス 其功績著ルシ因テ之ヲ追賞ス〉

 勝山宗三郎が亡くなった二年後の一八八五(明治十八)年、農商務卿の西郷従道が功績をたたえ追賞している。

 海を越えて世界に出回った前橋産の生糸。ロンドンの商人や絹織物を製造したリヨンの職人から最も品質の優れた提げ糸として高い評価を受けた。ローマ字で書かれた「マエバシ」は高級品の代名詞として使われたほど。勝山はブランドを維持、確立しながら生糸(いと)の町の繁栄を支えた。

 横浜では開港後、前橋生糸の糸価上昇に目をつけた商人による粗悪品が流出するようになり、生糸商として高い信用を得ていた勝山は憂いた。十七歳で繭糸業に入って以来、前橋の名を高めてきただけに許し難い出来事だったのだろう。

 均一で良質の生糸を量産するにはどうしたらいいか。勝山と同じ思いを抱いた藩士の速水堅曹(一八三九−一九一三年)の決断は座繰りから器械製糸への転換だった。官営富岡製糸場に先立って一八七〇(明治三)年に藩営の前橋器械製糸所を創業。スイス人技師、ミューラーの指導のもとで近代的な器械製糸が導入された。

 日本最初の器械製糸として歴史に名を刻んだ前橋製糸所は住吉町で操業。民家を転用したために工場としては手狭だったことから間もなく岩神町に移転し、器械製糸の普及を試みる。

 だが、速水の思惑とは裏腹に、多くの資金を懸けた器械製糸の良さがすぐには価格に反映されず、藩営としての運営はわずか二年にとどまった。廃藩置県を経て県に移管され、後に民間の小野組に渡ったものの、経営はひっ迫し破産、休業状態に。居抜きで買い取ったのが勝山だった。

 商人として培った確かな目で、自家で優良の生糸を生み出し、世に誇れる品を出したい−そんな思いがあったのではないか。器械を増やし、動力に蒸気と水車を併用して規模拡大を図りながら、品質の改良に取り組んだ。生糸の束ね方を提げ造りから捻(ねじ)り造りに変え、均一化された品質の評価は抜群だった。

 勝山の生糸は内国博覧会や横浜共進会で一等賞を獲得。国内外に「勝山製生糸」の名が知れ渡っていった。個人経営では福島の二本松製糸所、三重の伊藤製糸所、前橋の精糸原社とともに日本四大製糸所の一つに数えられたという。

 元前橋市立図書館長で郷土史家の佐藤寅雄さん(81)=前橋市平和町=は「勝山は生糸の品質に一番こだわった人物。主流だったヨーロッパ向けからアメリカへ向けた輸出の先駆けになるなど先見の目があった」と指摘する。

 生糸に懸ける思いを傾けたのは自社製だけにとどまらなかった。七四(明治七)年、前橋と同様に古くから生糸の産地だった長野県松代にあった器械製糸六工社が、負債を抱えて経営難に陥ると、勝山は手を差し伸べた。三年間にわたって生糸の買い取りを約束した勝山は、好況だったアメリカへ輸出。六工社を有数な製糸所に立て直した。糸改良の根源を優良な蚕種に求め、官営富岡製糸所の原料繭を一手に引き受けたこともあった。

 群馬県文書「明治十二年管内雑事」に〈勝山宗三郎なる者は、製糸の精良に深く注意、繭の売買に量衡を正しく取引をなす…〉と書かれている。勝山製は、前橋ブランドを織りなすために欠かせない生糸だった。(山形博志)

 1831(天保2)年、前橋市本町生まれ。商家だった勝山孝兵衛の長男で、幼名は伴助。父の跡を継ぎ、17歳で繭糸業に従事。横浜開港に伴って生糸を出荷、生糸商として活躍した。

 75(明治8)年に岩神町にあった旧前橋藩営器械製糸所を買い取り、規模を拡大。大渡製糸所として引き継いだ。座繰り製糸の改良、前橋生糸の品質向上と取引の正常化に努めた。経営難に陥った信州松代の六工社製糸再建にも力を注いだ。

 81年、製糸業者への金融を目的に、上毛物産会社(群馬銀行の前身)を設立した発起人の一人。生糸商だった下村善太郎らとともに多額の寄付金を出して県庁の前橋誘致にかかわり、師範学校新設にも尽力した。

 83年、前橋市中心部で起きた大火の際に負ったやけどが原因で死去。



(上毛新聞11月25日掲載)