「ぐんまルネサンス」 第2部
31 宮崎 有敬
 
      宮崎有敬
 〈世を治めることを一生の仕事と志し、国利民福を図る〉

 一九〇七(明治四十)年、貴族院議員、楫取素彦(かとりもとひこ)(一八二九−一九一二年)は宮崎有敬の功績をたたえる碑文のために筆を執った。

 楫取は一八七六(同九)年、第二次群馬県成立とともに初代県令に就任。八四年に元老院議官として転出するまで、草創期にあった本県の教育の振興と養蚕・製糸業など産業の発展に力を尽くした。

 第一回県議選に当選、七九年に開設された県議会の初代議長に選ばれた宮崎の〈常に高邁俊逸(こうまいしゅんいつ)にして英気人を驚かす言動〉(「群馬県議会史」)を、楫取は県令としてつぶさに見てきた。

 幕末から明治へと日本が近代化に向けて歩み始めた激動の時代。楫取が碑に刻んだ「国利民福」の言葉が、宮崎を突き動かしたといえる。


 明治維新後、宮崎は伊勢崎藩から群馬県、新政府へと移り、輸出される蚕種と生糸の品質向上の指導にあたった。海を渡った蚕種と生糸は外貨を獲得、日本の近代化を支えた。だが、幕末からの生糸の粗製乱造は日本の生糸の評判を著しく落とし、外国商人によって買いたたかれることもあった。生糸の品質向上は国家的要請になっていた。

 憂慮した宮崎は七五年、官職を辞して故郷に帰る。

生糸の品質を高めるため、足踏み式の座繰り器を考案したのは翌年の七六年だった。これまでの手で回す座繰り器と比べると、足踏み式はより均質な生糸をつむぐことが可能となった。さらに水力ではなく、足踏みという簡単な仕組みを取り入れ、一人で三人分の製糸ができる新しい方法で、生産量の増加を目指した。

さらに取り組んだのが、教授場を開設して製糸法を指導することだった。宮崎から数えて五代目の子孫にあたる宮崎勝美さん(68)=同市境伊与久=の自宅に残る「製糸勧奨組合の業務沿革総説」には〈教授場を設けて製糸法を教え、熟練した者に足踏み式座繰り器を売り与え、各自が良い糸を作る以外、これまでの悪い習わしをなくす策はない〉と記されている。

 教授場開設のための資金を募り、旧伊勢崎藩主にも要請して製糸勧奨組合を設立、自ら考案した足踏み式を設置した教授場を伊勢崎町(現伊勢崎市)に開設した。佐位郡小此木村(現伊勢崎市境小此木)と勢多郡苗ケ島村(現前橋市苗ケ島町)にも分教場を設け、多くの農家の婦人らに製糸法を指導した。

 こうして作り上げられた良質な糸は、水沼村(現桐生市黒保根町水沼)出身で、器械製糸所「水沼製糸所」を設立した星野長太郎(一八四五−一九〇八年)らと興した上毛繭糸改良会社を通して輸出された。


 宮崎は多くの献策を政府に提出したことでも知られる。その一つに九三年にまとめた「土地抵当銀行設立私議」がある。困窮を極める農民を救うため、土地を抵当にして長期間、低金利の貸し付けを実現する銀行設立を目指した。

 自分の政策を訴えるため、東京に滞在して政府要人らに働き掛けた。だが、目指した土地抵当銀行の設立を見ることなく九五年、この世を去る。宮崎が高く掲げた理想は亡くなった三年後の九八年、農工銀行の設立として実現する。

 勝美さんは「亡くなった後は借金が残り、家族は大変な思いをしたようだ。だが、国のため、農民のためにずっと思いを巡らせ、明治政府や県に働き掛けたことは確かだった」と、語り継がれてきた思い出や家に残された文書から知ったことを語る。「国利民福」を思い、農民の幸福のために捧げた生涯だった。

(田中茂)

 1832(天保3)年、佐位郡伊与久村(現在の伊勢崎市境伊与久)に生まれる。伊勢崎藩や群馬県、明治新政府で蚕種や生糸の品質向上の指導などに携わる。76(明治9)年、足踏み式の座繰り器を考案、良質の糸を作れるようにするため教授場を設けて製糸法を指導する。第1回県議選に当選、79年、初の県議会が開かれると初代議長に選ばれる。副議長は星野長太郎が務めた。本県で全国に先駆けて始まった廃娼(はいしょう)運動のきっかけとなったのが、この県議会だった。宮崎有敬議長の名前で「貸座敷の業を更(あらた)むるの建議」を楫取素彦県令に提出、楫取県令を動かし82年の廃娼令につながる。95年に設立された県農事試験場(現在の県農業技術センター)の創設も進言した。同年、東京で亡くなる。63歳だった。


(上毛新聞11月11日掲載)