| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 28 下城弥一郎 |
||||||||
第一三条 品質によって赤色、青色、茶色の証紙を使う 一八八〇(明治十三)年、下城弥一郎ら伊勢崎地域を中心とする織物業者三百五十八人が集まってつくった伊勢崎太(ふとり)織会社。現在の同業組合の性格を持つ太織会社の申合規則(全二十二条)に盛り込んだこの二条に、下城らは粗悪品を市場から排除し、失った伊勢崎織物の信用を取り戻す固い決意を込めた。 伊勢崎の織物は、農家が農閑期に副業として織っていたものから発達したといわれている。草の根や木の皮で染めた自家製の糸を使って織られた縞(しま)模様に特色があり、「太織」とか「縞」と呼ばれた。 五月のぼりを作っていた馬見塚村(現伊勢崎市)の鈴木マチが、桐生で学んだ機織りの経験を生かして「十」や「井」の字を織り込み、工夫を重ねて絵柄を織り上げることに成功したのが四七(弘化四)年ごろで、伊勢崎織物の始めとされる。明治維新後、絹の撚糸(ねんし)が経糸(たていと)に使われることによって密度も増し、布の表面も滑らかになって各地の市場で高く評価された。 一方で粗悪品が市場に出回り、伊勢崎織物の信用は大きく揺らいでいた。輸入された綿糸や合成染料を使う者、丈不足の布を出荷する者がいたためだ。特に色合いは良くても脱色、色あせが著しかったことが非難の声を大きくした。 深刻化する状況を打開するために立ち上がったのが下城らだった。 太織会社の申合規則には品質の向上をはかるため、経糸には玉糸、緯糸(よこいと)には熨斗糸(のしいと)を使うことや染めはすべて藍(あい)で染める正紺染とすることを盛り込んだ。 太織会社の社長を務めていた下城は染色技術向上のため染織講習所設立に動きだす。 〈太織会社を設立し規約を励行したが、時勢の進歩にしたがい組織の改良・染色の完全を図らなければ需要者の信用を厚くすることはできない。染織講習所を設けて奮励物産の改良を図る〉 下城は仲間を説得して決意をしたため、講師派遣の依頼を農商務大臣に願い出る。太織会社から改組した伊勢崎織物業組合が講習所を開設したのは八六(明治十九)年だった。 組合には十分な資金がなかったため、運営は苦しかった。染色技術の講習には優秀な技術者を招くことが必要だった。県に資金の借り入れを要請すると、確実な抵当を要求された。下城は自分のすべての所有地約二fを抵当に入れ、難局を乗り切った。 講習所は組合の規定染色法を定めた。伝統的な植物染料を使う方法を固有染法と呼び、化学染料を使う方法を講習所染法と定め、細かく指示した。講習所染法の導入で伊勢崎織物の色彩は変化に富み、市場での人気は大いに高まった。 伊勢崎織物協同組合の田村直之理事長は「下城弥一郎は伊勢崎の織物の品質保持と信用維持に私財をなげうって力を尽くした。後にやってくる伊勢崎織物の黄金時代の礎を築いた」と果たした功績を語る。 下城は九六(明治二十九)年、清(現中国)の商工業、なかでも養蚕、製糸、織物業を視察した。現地の様子を書きとめた日記の冒頭に、こう記した。 〈国家の基本は富国強兵だが、富国と強兵は同時に達成できない。強兵の策を講じようとすれば、まず富国の実を挙げなければならない。富国の方法は生産の増大と商工業の発展だけ。ほかにはない〉 「富国」のため伊勢崎織物の発展に生涯を尽くした下城の思いが、凝縮されている。 (田中茂) 1853(嘉永6)年、佐位郡下植木村(現在の伊勢崎市宮前町)に下城近右衛門、さだの長男として生まれる。81年、伊勢崎太織会社役員、82年、太織会社社長となる。織物だけの市場を造ることを提唱し、86年、賛同した有力者らと現在の同市中心部に織物市場を開設する。同年、伊勢崎織物業組合の組合長に就任。92年、地方織物業の改良・発展を図った功労により緑綬褒章を受章する。94年、県議初当選、3期連続で当選し、99年第10代議長となる。中心となって設立した染織講習所は伊勢崎織物業組合の組合立から1900年、県に移管され、伊勢崎染織学校と改称される。県議会で県立移管が可決された時の議長を務めた。伊勢崎染織学校は現在の伊勢崎工業高校の前身。1905年、52歳で亡くなる。 (上毛新聞10月14日掲載) |
||||||||