| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 27 書上文左衛門 |
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桐生織物の発展を支えた買次商は、産地問屋として織物を買い付けるだけでなく、時代の売れ筋をかぎ分け、機屋に伝える“道案内役”も担った。 十一代が晩年の一九一一年に創刊した月刊業界情報誌「書上タイムス」もその表れだ。織物産地の市況や流行などを紹介しつつ、評論、文芸など幅広い内容を盛り込み、毎号、銀行や織物組合、機屋など百六十店を超す広告主が付いた。 没後四年の一九一八(大正七)年五月発行の雑誌「上毛及上毛人」第二十号で、同誌を発行した郷土史家の豊國覚堂(一八六五−一九五四年)は、十一代の情報戦略をこうたたえている。 〈常に取引先に店員を派して、需要の状勢を調査し、流行の変遷を詳探し?、新規なる織物を製産するに至り〉 文献に「書上」の名が表れるのは一六〇〇年代から。歴代の当主が文左衛門を襲名した老舗買次商の家督を、十一代は一八九二(明治二十五)年に継いだ。 その翌年、織物輸出のため横浜市に支店を設け、九七年には同市内の別の場所に移し「書上輸出店」と改称した。欧米に羽二重を輸出したほか、中国向けの絹綿交織繻子織物「タンタンピース」を開発。一九〇七年には上海の英国租界地に「書上洋行」を設置して、桐生織物の新たな市場の開拓を図った。 海外に目を向けつつ、足元の足利、伊勢崎、館林、佐野に出張所を設けて両毛織物の大部分を取り扱う態勢も整えた。東京の最大クラスの集散地問屋が年五百万円を仕切るのが精いっぱいの時代に、書上商店は〈年買次高実に六百万円の巨額を算し〉(書上タイムス)ていたという。 桐生織物の発展史は買次商の興亡の歴史と重なる。絹織物産地として一七〇〇年代に自立した桐生で、買次商は織物を買い上げ、対外的には桐生産地を代表して江戸や大坂、京都など大消費地への販路を広げた。 生糸の不足と高騰に苦しんだ幕末のころ、佐羽商店は輸入洋糸(綿糸)を持ち込み、絹綿交織物で活路の道を開いた。輸出織物の元祖とされる羽二重の創始は、小野里商店の功績が大きい。買次の目利きが桐生織物を救った局面は多い。 隆盛を極めた佐羽商店は一八九六年に破産し、小野里商店も九〇年不況期に休業に追い込まれている。ライバルが相次いで姿を消す中で、書上商店は明治三十年代に桐生最大の買次商となる。十一代の手腕が「関東織物買次王」と称されるまでの成長をもたらした。 輸出に向く商品やルートの開拓に力を入れるなど、他の買次商に見られない積極策が十一代の手法だった。東京大学名誉教授の石井寛治さん(69)(近代日本経済史)は「しっかりした人材が番頭らにいたのだろうが、最終的な積極路線は自らが判断していたはず。買次商として先を見通す力を持っていた」と分析する。 〈五月三十日、愈(いよい)よ葬儀の日は来たりぬ、前日来降り続ける雨は尚ほも盛んに降り続き書上家に取りての大事を悲しめるが如し?〉 一九一四(大正三)年六月五日の「書上タイムス」は創刊者の葬儀を克明に記した。森宗作、大沢福太郎、飯塚春太郎、前原悠一郎、金子竹太郎ら、当時の“桐生の顔”が居並び、一般会葬者は二千人を超えた。 同誌は十一代の業績を知るための貴重な資料を提供する。同時に、高崎の「吉野商報」とともに本県の業界情報誌の先駆けとしての価値を持っている。同誌が紹介した書上商店十一代当主の死は、織物のまち・桐生の発展とともに歩んできた「買次商」時代の幕引きを暗示していた。 (山脇孝雄) 1864(元治元)年10月24日、現在の埼玉県羽生市に生まれた。伯父の代議士、堀越寛介の薫陶を受け、上京して漢学やフランス語を学ぶ。 横浜のレンガ会社に就職した後、90(明治23)年に婿養子として書上家に入り、2年後に家督を相続した。帳簿を横書きにするなど書上商店の経営革新を進め、有能な人材を確保し、両毛地域の織物輸出を推進、織物情報誌「書上タイムス」の発刊などを手がけた。 桐生織物同業組合長をはじめ、第四十銀行、渡良瀬水力電気、桐生撚糸、両毛製織の取締役を務め、足尾鉄道や東武鉄道の敷設にも尽力。山田郡立高等女学校(現桐生女子高校)や官立桐生高等染織学校(現群馬大工学部)など教育機関の設立にも深くかかわった。 1914(大正3)年5月27日病没。50歳。 (上毛新聞10月7日掲載) |
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