「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
24 岩瀬吉兵衛 |
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桐生織は先染め・紋織りを特徴としている。この技法は京都・西陣から一七八六(天明六)年に伝わった。その三年前、岩瀬吉兵衛が完成させた水力八丁撚糸(ねんし)機は、二百年を超す伝統的な織物づくりを下支えする画期的な技術だった。 糸を染めるには、繭からひいた複数の生糸に撚(よ)りをかけ、強く、太くすることが欠かせない。岩瀬の発案は撚り糸を大量に作る道を切り開いた。 撚り糸の需要は四三(寛保三)年、縮緬(ちりめん)の製法が桐生にもたらされ、急増した。 同年の「桐生絹市故事」は〈下久方村の大工、峰岸勝右衛門が西陣の紡(つむぎ)車(ぐるま)を模造、かろうじて撚糸を行った〉と記録する。撚糸の不足を解消するため、峰岸の下に寄食していた岩瀬は水力八丁撚糸機の開発に向かった。 峰岸が取り組んだ撚糸の製法ははっきりしない。おそらく、一本ずつ紡車で撚ったのだろう。岩瀬は〈紡車の徒らに人力を費やす〉(桐生織物史人物伝)効率の悪さに気付いた。五二(宝暦二)年の文献に「道頓堀十二車」という手動式の八丁車の図があり、これをヒントに、幾つもの錘(つむ)を同時に動かして一度に多数の生糸を撚り出すことに成功した。 岩瀬の独創性は、人手を省くために水車を新しい機械に結合、実用化したことにも現れた。 梅田村忍山(おしやま)を訪ねた高山彦九郎(一七四七−九三年)は七五(安永四)年の「忍山湯旅の記」に、当時の桐生の風景を〈境野村を経て桐生新宿に至る、左右の人家皆ナ糸織を以(もっ)て業とす、家の前小溝流る水車を以て綱を家に引はえて糸をくる、奇異なる業なり〉とつづった。 糸繰りは生糸を枠に巻き取る作業で、機織の準備工程の一つ。彦九郎は水車を「奇異なる業」ととらえたが、岩瀬は八丁撚糸機の動力源として活用した。「講座・日本技術の社会史第三巻 紡織」は〈繊維産業技術の一つの到達点を示す〉と絶賛する。 桐生文化史談会の亀田光三会長(76)=桐生市小曽根町=も「撚りの技術が発展しなければ先染め産地はあり得ない。岩瀬の発案は桐生織の原点を形作った」とみる。 紋織りに欠かせないもう一つの技術「高機」は三八(元文三)年、桐生に伝わった。西陣が技術の流出を警戒する中、桐生の機屋らは江戸を往来する西陣の織物師を招いたり、割増金をつけて諸道具の購入を果たした。 いわゆる「空引き機」で、経糸(たていと)の上げ下げを人力で行うが、原理はジャカード機と同じ。新居藤右衛門(一六七八−一七五六年)は翌年から紗綾を織り始めた。新居は「紗綾機をお望みの方は遠慮なく取り立てなさるように」と新織法を秘匿せず、三年後、桐生の高機は四十機を超えた。 高機、八丁撚糸機の普及が、先染め紋織りの技術を受け入れる土壌をつくった。紋織り以前の平織りは西陣が独占する仕上げ工程が重要で、桐生は京都に従属する半製品産地としての地位から逃れられなかった。一七〇〇年代のさまざまな技術革新、中でも紋織りの確立で京都の呪縛(じゅばく)から解かれ、「東の西陣」として自立していく。 彦九郎は「新町(桐生市本町)は南北への通り也、・・・町の中溝流る」とも記した。山紫水明とうたわれる桐生は、まちの至る所に水路がめぐっていた流れていた。今でも市街地に名残がある残る。岩瀬の発明は土地の適性を生かし、後の大織物産地に向かう“出発点”を形作ったといえるだろう。 (山脇孝雄) 1746(延享3)年に下総国結城郡中村(現茨城県結城市)に生まれた。33歳の時に桐生に移り住み、車大工の峰岸勝右衛門に弟子入りした。 職人として独立、山城国(現京都市)を旅し、当時有名な「淀の水車」などを見学している。大阪で見世物として出された「道頓堀十二車」(宝暦2年「絵本家賀御伽」所収)を視察したことも考えられる。 考案した水力八丁撚糸機が83(天明3)年に完成。で、桐生地方の撚糸業、機業は多大な恩恵を受け、精巧な織物を産出することができた。水車利用の機械は、水利の良い機業地に急速に普及していく。 3年後の86(天明6)年、桐生に隣接する下野国足利郡葉鹿村(現足利市葉鹿町)の諏訪の瀬に同機を架設したという記録が残る。1822(文政5)年に76歳で死去。 (9月2日上毛新聞掲載) |