「ぐんまルネサンス」 第2部
22 馬場 重久
 
吉岡町北下の諏訪神社に立つ馬場重久の顕彰碑
 蚕の正しい育て方を皆に知ってもらうには、どうしたらよいのだろうか−。

江戸時代中期。群馬郡北下村(現吉岡町北下)で養蚕の研究をしていた馬場重久は頭を悩ませた。

 文字を読める農民は少ない。一部の識字者が養蚕指導書を読み、人々に広めたとしても、細かい飼育方法まで伝えきれるものではなく、すぐに忘れられてしまう。悩み抜いた末、馬場が考え付いたのは飼育の要点を「歌」にすることだった。一七一二(正徳二)年に著した養蚕指導書「蚕養育手鑑」には、文章の合間に自作の歌十六首を盛り込んでいる。

 〈蚕には ついえを徳の もととする 桑おしむなよ ひまおしむなよ〉

 蚕を飼うには、桑を惜しまず与え、時間を惜しまず世話することが重要と訴えている。人によっては、ついえ(無駄な出費)と思えるような行いが、繭の豊作をもたらすことを端的に表現している。

 同書には物語も挿入されている。ある貧しい農民が養蚕に懸命に取り組み、五、六年で飼育方法を習得。蚕室を造り、桑を買い足し、養蚕期には手伝いを雇うなどして蚕を飼う量を増やし続けたところ、やがて地域随一の長者になり、親にも孝行を尽くせたという粗筋。〈蚕に心をつくすべし〉〈何とぞ養蚕の理を得徳すべし〉と締めくくっている。

 馬場が養蚕の研究を始めたのは二十歳のころ。飼育がうまいと評判の人を訪ね歩き、飼育方法を聞いた。一度も失敗したことがないという老女には、住み込みで指導を受けた。反対に失敗した農家も訪問し、その原因を追究した。自宅蚕室ではさまざまな蚕種を使い、時期をずらして育てる試験飼育を繰り返した。

 苦労を重ね、執筆を決意したのは五十歳だった。書の冒頭に、執筆時の心境を記している。

 〈吾此の理を漸くに得るといへども本より愚暗の身なれば人々信用しがたし、ただ子孫にしらしめんため他のあざけりをも恥じず之を書き記し〉〈蚕の出る時節には取出し時々剋々に見て書のごとくする時は仕損ずる事あらじ〉

 飼育方法には絶対の自信を持っていた。ところが当時は、書物の出版、流通が容易ではない時代。「一地方の肩書のない者が本を著しても相手にされないのではないか」という不安を抱えながらも、「せめて子孫のために」との強い思いで筆を執った。

 国内で最も古いとされる養蚕指導書は近江の野翁穏田(本名・野本道玄)が一七〇二(元禄十五)年ごろに記した「蚕飼養法記」。馬場はこれに継ぐ二番手として、指導書を書いた。この後、江戸後期から明治にかけて養蚕研究の必要性が認識されると、各地に研究者が現れ、指導書の数は百冊以上に及んだ。

 国立歴史民俗博物館の名誉教授で、群馬大元教授の高橋敏さん(67)=千葉県船橋市=は「三十年にわたる自らの経験に基づいた指導書だから説得力があり、今なお読む者に感動を与える。養蚕指導の先駆者であり、後世の指導家に与えた影響は大きい」と功績をたたえる。

 長野県上田市の蚕糸業関係者らが一九二八(昭和三)年、江戸時代の代表的指導書十冊を選出し、「蚕桑古典集成」として出版した。この中に蚕養育手鑑も選ばれた。この本の序文はこう訴えている。

 〈徳川時代の養蚕論はもとよりすこぶる素朴なものであるけれども、(中略)実験より得たる貴き真理が多分に含まれている」「この真理を吟味し探求して行ったならば最新科学も尚お瞠若たるものあるかも知れぬ〉

(斉藤洋一)


 生年は1663(寛文3)年とされているが、26(寛永3)年という説もある。群馬郡北下村(現吉岡町北下)に生まれ、医業のかたわら20歳ごろから農業や養蚕業の技術改良に打ち込んだ。
 30年に及ぶ養蚕経験から考案した飼育方法を11カ条にまとめ上げ、1712(正徳2)年、養蚕指導書「蚕養育手鑑」を出版。庶民にも分かりやすいように、文中に交えた歌や物語で飼育の要点を端的に示した。
 桑の品種「陣馬」を発見、普及したり、田畑の草削り用の手鍬「馬場鍬」を考案するなど、さまざまな角度から農業と養蚕業を研究した。35年に73歳で没。
 吉岡町北下にある墓は1952(昭和27)年、県史跡に指定された。58年には同所の諏訪神社境内に顕彰碑が建立された。



(8月12日掲載)