「ぐんまルネサンス」 第2部
18 小渕 志ち
 
愛知県豊橋市で座繰りの技術を伝え、糸の街としての同市の発展を導いた小渕志ち(豊橋市美術博物館提供)
 第一次世界大戦終結翌年の一九二〇年四月。戦争特需の反動で、日本の景気は急降下。全国の数多くの企業が、倒産に追い込まれた。

 富士見村出身の小渕志ちが立ち上げた愛知県豊橋市二川町の「糸徳製糸工場」も大きな損失を受けた。当時、志ちは七十三歳。工場経営は子や孫に任せていたが、損失の話を耳にすると、笑ってこう語った。

 「この工場がなあ、立ち行かんで、もし人手に渡っても仕方はないが、渡す時は、この工場は婆々つきで買ってもらうんだから、それは承知しておいてもらいたい。私は飯と汁さえあればいい。ぜいたくなことは言わんのだから。婆々つきの工場だからのう」

 孫の小渕義一氏が編集兼発行人となって志ちの没年に出版された「亡き祖母のかたみ」(鈴木関道著)にそう記されている。

 働くことを尊び、八十歳を過ぎても、製糸場内を見回り、自ら糸をひいた。経営者としての大きな財産と名誉を得ても、質素な生活を貫いた。本に残る言葉は、こうした志ちの生き方を象徴している。

 生まれは富士見村の養蚕農家。夫の暴力を受け出奔し、旅先の二川町で子女数人に座繰りを教え始めた。やがて従業員千人を超す大工場の経営者となる。二川町を含む豊橋は前橋、長野・岡谷と並ぶ“糸の街”に発展した。志ちは、明治の女性としては、信じられないサクセスストーリーを歩んだ。

 こうした志ちの成功を支えたのが、座繰りの技術だった。しかしその座繰り技術は、決して特別なものではなかった。「当時の富士見村ではどこの農家も座繰りをしていた。志ちもその一人。上州では当たり前の技術だった」と郷土史研究家、柳井久雄さん(79)=富士見村米野=は語る。言い換えれば、当時を生きたすべての上州女性に、同じチャンスがあった。それを分けたのは「古里を飛び出した勇気」で、結果として「養蚕、製糸の現場出身の女性が、絹の歴史に名を残した非常に意味のある事例となった」と柳井さんは考えている。

 ただし、成功するまでの志ちの人生は苦難の連続だった。郷里では夫の暴力に生傷が絶えず、座繰りで稼いだ金も夫の酒代に消えた。駆け落ちのように、連れ添って出奔した同郷の繭糸商、中島伊勢松(後に徳次郎に改名)は二川で製糸場設立後、戸籍がないために懲役刑を受け、獄中死した。志ちはこうした苦難に耐え、ひたすら座繰りに打ち込んだ。

「亡き祖母のかたみ」には、こうした志ちの言葉も記されている。

 「泣けるのは未いまだおろかなことだ。一生懸命の時には泣くどころではない」「自分の悲しみは自分だけの悲しみで、人の悲しみではない。それを語ったとて何になろう。人が我が悩みを手伝ってくれられるものでないから、話すことは無用のことだ」

 気丈な性格で、周囲には愚痴一つ語らなかった。
 
 晩年の志ちは「幼児教育に力を入れるように」と子孫に語っていた。志ちの没後十年余りが過ぎた一九四〇年、女性工員寄宿舎の空室を利用して、二川幼稚園が設立された。工場は五七年に廃業したが、幼稚園には今も二百六十五人の園児が通っている。

 二川町の岩屋山中腹には、志ちの銅像がある。志ちが亡くなった翌年に、地元の同業者らが建立した。戦時中の供出で台座のみとなったが、八六年に糸徳製糸工場の元従業員らが資金を出し合って再建した。

 豊橋から蚕糸業の灯は消えてしまった。けれども、街の歴史を一変させた上州女性の立志伝は、有形無形に街に刻まれている。

(斉藤洋一)



 1847(弘化4)年富士見村石井生まれ。9歳で母から座繰りを習い始める。15歳から1年間、前橋の製糸工場・蔦(つた)屋で働き、座繰り技術に磨きをかけた後、自宅に作業場を設けて独立した。

 17歳で婿を迎え入れたが、度重なる暴力を受けたため、79(明治12)年、32歳の時、地元の繭糸商と出奔。旅先の愛知県豊橋市二川町で、座繰り製糸の技術が見込まれ、製糸場を設立した。

 2匹の蚕で1つの繭をつくった「玉繭」から、「玉糸」をひき上げる技術を発明したことを契機に大きな利益を上げるようになり、11年に名古屋を訪問された大正天皇に玉糸を献上。13年に名古屋離宮滞在中の大正天皇を訪問した。26年には従業員が1000人を超えた。29年に82歳で逝去。


(6月17日掲載)