「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
15 中居屋重兵衛 |
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重兵衛の店は間口が三十間(五十四b)あり、同様に出店した幕府の御用商人、三井の越後屋をしのぐ。屋根が銅瓦でふかれていたこともあり、「銅(あかがね)御殿」と呼ばれた。 大きさや外観ばかりでなく室内も特徴的だった。六二(文久二)年に刊行された「横浜開港見聞誌」(橋本玉蘭斎貞秀)には店の様子がこう記されている。 〈又本町四丁目には中居という店あり、坐敷は異人のこのみに任せ、中庭へ小鳥をはなち、金あみにて天井四方をかこい、風流あるはびいどろ(硝子)にて壁の内をはって水をいれて、金魚のここかしこと遊べてめずらかなり。此坐敷に二尺余の四足台に横一尺七、八寸、竪六、七寸の箱をおきてあり、是はヲルゴルの大なる物にして、最もその音色美にして高し〉 ガラス張りの水槽を部屋の壁にして金魚を泳がせ、大きなオルゴールから美しい音楽が流れる。現在でも通用するような斬新さで、当時の人たちは相当なカルチャーショックを受けたと思われる。 重兵衛は外国奉行、水野筑後守忠徳や岩瀬肥後守忠震らと交流があった。横浜出店はこうした幕府要路からの要請もあったといわれ、外国との自由貿易で財政を盛り返そうとした会津、紀州、上田などの諸藩からはさまざまな物産を託された。しかし、最も力を入れたのは生糸だった。 日本の生糸は横浜開港を境に世界市場に躍り出る。それまで首位を占めていた清国(中国)が英仏との戦争や内乱で混乱する中、日本の生糸貿易は急激に拡大した。輸出額に占める割合は六〇年上半期に五割弱だったのが、六二年には86%に達している。 重兵衛は生糸貿易の主役を演じた。三井各店から京本店への報告をまとめた「永書」(三井文庫)によると、六月の開港から四カ月後の十月八日の記録に、重兵衛が生糸一万七千−八千斤を取引したとある。同じ記録で横浜港全体の取引が三万五千斤になっており、その半分近くを一手に引き受けていたことが分かる。 生糸の事前準備も怠りはなかった。開港直前の重兵衛の日記「昇平日録」には三月十九日付で、「群馬郡西明屋村下田文三郎様、同郡矢原村小沢弥平治様御出貿易御引合」とある。二人は現在の高崎市箕郷町内の分限者で、地域の生糸を集め、重兵衛を介して貿易品とした。 江原芳右衛門(一八一三−七三年)や下村善太郎(一八二七−九三年)、竹内勝蔵(一八三二−八九年)ら前橋の生糸売込商も重兵衛に大量の生糸を持ち込んだ。前橋の提さげいと糸(さげいと)は高品質で外国商人の評価は高く、買値の三倍の値段で売れたという記録もある。 隆盛を極めた重兵衛だが、横浜で活躍したのは二年ほどで、突然、歴史上から姿を消した。その死は謎のままだ。 〈雨とかせふたつにわかる柳かな〉 戦前から重兵衛研究に取り組んだ郷土史家の故萩原進さんは著書「新版炎の生糸商 中居屋重兵衛」の中で、重兵衛の俳句にその短い生涯を重ねながら、「命をながらえて明治の新しい時代まで生き延びていたらという追惜の念をもつ」と書き残した。 子孫で中居屋重兵衛顕彰会事務局長の安斎洋信さん(76)=嬬恋村芦生田=は「最後は没落したが、何もノウハウのない時代に外国と貿易を始めた。郷土愛を保ちながら、世のために生きた」と語る。重兵衛が生糸貿易に先せんべん鞭(せんべん)をつけたことにより、絹産業を核とする本県の発展や日本の近代化が具体化したともいえそうだ。 (小渕紀久男) 1820(文政3)年、吾妻郡中居村(現嬬恋村三原)に生まれる。幼名は黒岩武之助(ぶのすけ)、長じて撰之助(せんのすけ)といった。 19歳の時、江戸に出奔。親類筋に当たる日本橋の書店和泉屋に身を寄せ、学問や武道に励む。29歳のころ日本橋3丁目に独立開店。諸国の物産を集めて売り、火薬の製造販売で成功を収める。著書に「子供 教草(おしえぐさ)」「集要砲薬新書」「火薬集要」などがある。 江戸での暮らしで開明派幕吏と親しくなり、59(安政6)年、開港した横浜に進出、中居屋重兵衛を名乗る。横浜一の豪華な店を構え、生糸の輸出を本格的な交易に発展させた。61(文久元)年、41歳の若さで死去。その死は謎に包まれている。 嬬恋の生家は郷里の妻・みやの弟が継いだ。現在は7代目の黒岩幸一さん(56)が割烹(かっぽう)中居屋を営む。 (5月20日掲載) |