「ぐんまルネサンス」 第2部
12 田島 弥平
 
1880年3月、イタリア・トリノの画学校を訪問した際、依頼して描いてもらった田島弥平の肖像画

 〈先輩が著した養蚕の書はたくさんあるが、それぞれに良いところと悪いところがあって手本には足りない。この本は私が数十年自分で試して得たもので、空論虚説はない〉

 佐位郡島村(現在の伊勢崎市境島村)の養蚕研究家、田島弥平が一八七二(明治五)年に著した養蚕の技術書「養蚕新論」の巻頭を飾る「緒言八則」の一つだ。昭和の初めまで地方によっては「当たり外れは時の運」といわれた養蚕。同書の記述からは糸繭よりも難しいといわれた種繭(蚕種)への揺るぎない自信が伝わってくる。

 「養蚕新論」は当時、農家の実践に基づいた経験を分かりやすく解説した画期的な技術書として日本全国で読まれたといわれる名著。弥平から数えて五代目の子孫に当たる田島健一さん(77)=伊勢崎市境島村=は語る。

 「養蚕新論は弥平の父、弥兵衛(一七九六−一八六六年)と弥平との合作。親子二代にわたって実践した結果をまとめた本なのだから自信があって当然。技術者だから、確実性を高めるために私たちが考える以上に繰り返して、結果が出たことをまとめたはずです」

 弥兵衛は若いころ、「温暖育」を説く指導書に従い蚕を飼育した。東北地方など寒冷地で行われていた、蚕室を火力で暖め、すき間風を防ぐ飼育法で、数年試してみたが、思うような成果は上がらなかった。

 「本では分からない。農家から直接教えてもらうのが一番」。そう思い、東北や長野、山梨などの養蚕地帯を回って研究した。納得できる方法が見つからないでいた時、立派な家よりも貧しくて四方の壁が穴だらけの家屋で蚕がよく育つことに気付き、「風通しの良いことが成功の要因」と考えた。

 弥兵衛のこの発見を基に父と子は数十年にわたり実践を重ね、できるだけ自然に任せる飼育法「清涼育」にたどり着く。〈養蚕は人を育てることと同じ。寒い時は戸を閉め、窓を閉めることもいいだろう。太陽が出て暑い時は十分に窓を開け、涼しい風が室内に満ちるようにして蚕を快適にすること〉と説いた。

 通気を良くするため建物の四方に窓を設け、屋根の頂に幾つかの小窓を開けた蚕室を考案した。試したところ、一回の失敗もなく毎年毎年好結果が出た。

 健一さんが住む家は一八六二(文久二)年に建てられた。間口二十六b、奥行き十五bの総二階建てで、屋根の端から端まで小窓を設けた「総櫓(そうやぐら)」だ。同じ造りの蚕室が「養蚕新論」でも詳細な絵で紹介されている。

 建築時、弥平は四十歳。弥兵衛も健在だった。これまでの親子の実践を集大成する蚕室だったに違いない。

 島村には今も弥兵衛、弥平の親子が考案した、屋根に小窓を設けた養蚕農家が数多く残る。だが、ここ数年、急速に姿を消している。島村の人たちは一昨年、地域に残る養蚕農家の保存・活用を目指して、ぐんま島村蚕種の会を結成した。健一さんは会長に就いた。

 度重なる利根川の洪水に見舞われた島村の土地は桑の生育に適した。村人は弥平の指導を受けながら競って蚕を育てた。日本三大蚕種産地の一つといわれるまでになり、精良な蚕種は海を渡り、評判は国内ばかりでなく海外でも高まった。この蚕種が生糸とともに輸出され外貨を獲得し、日本の近代化を支えた。

 「養蚕新論」の緒言八則の最後の一節はこう結ばれている。

 〈(養蚕新論は)小冊子といえどもまた国家に微益なくんばあらず。文章がうまくないからといって捨てることなかれ〉

 蚕種に懸けた弥平の生涯を貫く思いだろう。(田中茂)

◎田島 弥平   1822(文政5)年、田島弥兵衛の長男として佐位郡島村(現在の伊勢崎市境島村)に生まれる。72(明治5)年、田島武平らと蚕種販売会社「島村勧業会社」を設立。同じ年、これまでの養蚕の実践を基に「清涼育」を説く「養蚕新論」を著す。巻頭には「満簇如雲」と印刷されている。筆を執ったのは西郷隆盛。蔟(まぶし)に満つること雲のごとし。蚕に繭を作らせる蔟に、雲のように繭がたくさんできるという意味。79年には「続養蚕新論」を出版した。その年の12月、田島信、田島弥三郎と3人で横浜を出港、米国、英国、フランスを経てイタリア・ミラノに入り、島村の蚕種を販売した。72年、79年と2回にわたり、宮中で御養蚕に携わる。98年、76歳で亡くなる。

 (4月29日掲載)