「ぐんまルネサンス」 第2部
10 新井領一郎
 
良質の生糸を米国に直輸出する道を切り開いた新井領一郎(右)と兄、星野長太郎

 江戸幕府が諸外国と結んだ不平等条約は、成立間もない明治政府に重くのしかかった。中でも輸入超過は深刻で、最大の輸出品である生糸の直輸出は国家の命運をかけた事業だった。

 星野長太郎(一八四五−一九〇八年)が水沼村(現桐生市黒保根町水沼)に設立した水沼製糸所も、生糸の直輸出に応じた。横浜からの輸出が薄利だった事情のほかに、直輸出には外貨獲得という時代の要請が横たわっていた。

 高崎藩営の英学校などで学んだ星野の実弟、新井領一郎は、直輸出の“適任者”として選ばれた。兄や養父にも異論はなかった。弱冠二十歳の新井に各方面から寄せられた期待の大きさは、渡米の際の「餞別(せんべつ)覚」に残る福沢諭吉、速水堅曹、黒田清隆、楫取素彦らの名前からもうかがえる。

 新井は一八七六(明治九)年四月十日、ニューヨーク市に着き、日本生糸の不評を目の当たりにする。

 「明治九年ごろの日本生糸は品質悪く、そのうえ外人を瞞(だま)すなどの傾向があって敬遠されていた。(中略)日本生糸の輸出を伸ばすためには品質を揃(そろ)えること、品位を一定させることである」

 十一年後の八七年五月、一時帰国した新井は、前橋・臨江閣で行った講演でこう述べた。米国での販路開拓という重責を担って、日本生糸の評判を高めるために力を尽くした新井の強い意志が伝わってくる。

 渡米直後からニューヨークで注文取りに奔走した新井は、後に米国生糸協会の会長となるB・リチャードソンと一ポンド=六j五十kで初契約を結んだ。七六年五月七日付の兄あての手紙に「持参した(見本の)糸…リチャルソン…気に入り候」と書いている。同月二十三日付の手紙では、「注文の製品は見本に勝る共少しも劣らざるよう」求めている。

 契約成立の情報と注文品が日米間を行き来するのに多くの時間を要した当時の交通事情から、兄弟は思わぬ“苦難”を背負った。折しも生糸価格が急騰していて、契約条件では水沼製糸所が購入する繭代にも満たなかったからだ。

 兄から値段の再交渉を懇願された弟は、荷を九月二十六日に受け取り、二日後に契約通りの“安値”で引き渡した。この正直な行動に感激したリチャードソンは一ポンド当たり一jを上乗せした。異国で生涯を過ごす新井は米国での第一歩をこうして踏み出した。

 初取引で信頼を勝ち取った新井は幸運だった。企業倫理や法令順守が現代社会でも課題とされる中で、「信用」を日米生糸貿易の要と見抜いた百年以上前の新井の鋭敏な感覚は際立つ。

 カリフォルニア大学ロサンゼルス校で新井・星野兄弟の研究に携わった大阪学院大学の阪田安雄教授(75)はこうとらえる。

 「新井は良い品物を選ぶ『目利き』に優れ、自分が求める生糸を兄が作った。星野の存在なく、新井の成功はなかった。そして、兄の工場で作られる身元のしっかりした生糸がアメリカで信用されたことも見落とせない」

 六十年余りの米国での生活は一九三九(昭和十四)年四月に終焉(しゅうえん)を迎えた。新井の死を悼んで、ニューヨークの商品取引所が黙祷(もくとう)をささげた。

 新井の孫で元駐日米国大使夫人の、ハル・ライシャワーさん(一九一五−九八年)は著書「絹と武士」で〈(新井は)日米関係がそれぞれの自信とお互いの信頼の基礎の上に成り立つことに貢献した〉と回想している。
(山脇孝雄)




◎新井領一郎  1855(安政2)年、水沼村(現桐生市黒保根町)の名門、星野家に生まれる。水沼製糸所の創立者、星野長太郎は実兄で、新井は67年に下田沢村鹿角(同町)の新井家に養子に入った。17歳の時に高崎藩営の英学校に入学している。机を並べた仲間に、憲政の神様と言われた尾崎行雄らがいた。20歳で渡米、日本生糸販売の開拓者として、米国への生糸の直輸出に生涯をかけた。米国での邦人社会の振興にも務め、日本協会、日本倶楽部などの創設に深くかかわっている。1939(昭和14)年、84歳で逝去。孫にはハル・ライシャワーさんの他に、東京・元麻布の西町インターナショナルスクールを設立した種子がいる。同スクールと黒保根中、黒保根小で続く“国際交流”の根底は、新井を軸に育てられた縁が支えている。




 (3月18日掲載)