「ぐんまルネサンス」 第2部
7 高山 長五郎
 
長五郎を撮影した唯一の写真。40代前後と推定されている
緑野(みどの)郡高山村(現藤岡市高山)で養蚕改良に励んでいた高山長五郎は、村にいくつかあった蚕の神様をまつる神社やほこらを一つの神社に合祀(ごうし)した。一八七七(明治十)年ごろのことだ。

 このため農民たちの多くが豊蚕を祈ることができない事態になった。ところがその年の蚕は大当たりする。長五郎は農民にこう説いた。「豊作は神の力ばかりではない。養蚕をする者の誠意が蚕に届くことが大事だ」と。弟子がまとめた「高山長五郎翁略伝」(一九一八年)に、そんなエピソードが残されている。

 「蚕は天の虫」として、神頼みの養蚕が残っていた時代。のちに独自の養蚕飼育法を確立し、「養蚕改良高山社」を創立する長五郎が一貫して失わなかった科学的な視点がそこにある。

 高山家は、中世武家の流れをくむ地元の名主だった。父・寅三が早々に隠居してしまったため、長五郎は十八歳で家督を継承。家産を建て直し、戸長として村民すべてを救済するため、地元の主産業であった養蚕の改良に全力を傾けた。

 一八七〇(明治三)年、養蚕組合「高山組」を組織。門弟たちに自身の養蚕飼育法を伝授すると同時に、共同研究を始める。

 当時の飼育法は大別して三種類。東北など寒冷地で行われた「温暖育」、そして島村(伊勢崎市境島村)の田島弥平による「清涼育」、両方の長所を取り入れた「折衷育」で、長五郎が研究を進めたのは「折衷育」の一つだった。

 当初は失敗も多く、長五郎は古今の養蚕に関する書物を読み、各地の養蚕家に直接教えを請うなど、過去の研究を徹底的に洗い直した。そして、野蚕の生態を通じてヒントをつかみ、「必要最小限の火力使用による保温と換気」を特徴とする「清温育」が完成する。

 長五郎を研究する共愛学園前橋国際大学の宮崎俊弥教授は指摘する。

 「長五郎は先人の研究を踏襲しながらも、柔軟性に富んだ思考を持っていた。血筋もあり、だからこそ高山社という組織をなすことができたのではないか」

 長五郎の研究には、明治時代でありながらヨーロッパの知識を導入した形跡は見られない。あくまでも在来の手法を使い、合理的な方法を生み出していった。

 一八八三(明治十六)年、長五郎は飼育法をさらに研究し、繭や生糸の品質向上を図るために、「養蚕改良高山社」の設立許可願を当時の県令、楫取素彦に提出する。清温育が多くの農家を救うと確信し、それを広く伝習する組織の必要性を感じていた。

 長五郎のひ孫の妻の高山淑子さん(84)は、今も長五郎の生家で暮らす。淑子さんは長五郎を知る人から、少し頑固な人柄を聞かされたことがある。「有名になったのだから写真を残すべきだと言われても嫌がり、生徒さんが説得してやっと一枚だけ撮影に応じたそう。私利私欲のない人で、成功したのはそのおかげでしょう」

 高山社の規模拡大のために奔走中、長五郎は病に倒れる。後継者には、飼育技術と経営手腕を高く評価していた“一番弟子”の町田菊次郎(一八五〇−一九一七年)を指名する。長五郎の死後間もなく、高山社は藤岡町(現藤岡市藤岡)に移転。農民結社から私立養蚕学校へと姿を変え、一九二七(昭和二)年まで続いた。

 のちに高山社を訪れた民俗学者の柳田国男は「全国多数の蚕業者に対して一種の本山的地位を占むる」と称賛。社員たちの、長五郎に対し尊敬の念を抱く一方でその教えに間違いがあれば正す姿に感心した。より良い飼育法を追い求めた長五郎の遺志が引き継がれていたのだ。

 「地域のため」と長五郎が起こした組織は、高山社流の養蚕を全国共通のものとして発展させる礎となったばかりでなく、「組織をつくり、人を動かして利益を生み出す」新しい産業の形を残した。(前原久美代)


◎高山長五郎 1830(天保元)年、緑野郡高山村(現藤岡市高山)の旧家に生まれる。熱心な養蚕家の祖母に感化されて育ち、父の隠居に伴い18歳で家督を継いだ。養蚕の安定生産のために養蚕法の教授を始め、73(明治6)年に養蚕組合「高山組」を組織。自宅での伝習に合わせ、優秀な門弟を授業人として各地の農家で巡回指導を行った。失敗を重ねながらも養蚕改良に取り組み、83(明治16)年に独自の養蚕法「清温育」を確立。84(明治17)年、正式な養蚕飼育法の伝習機関として、県の認可を得て「養蚕改良高山社」を発足、社長に就任する。のちの「私立甲種高山社蚕業学校」時代には最盛期の社員総数が4万人を超え、高山社の養蚕技術は全国に広まった。86(明治19)年に56歳で逝去した。

 (2月25日掲載)