「ぐんまルネサンス」 第2部
6 ポール・ブリュナ
 
旧官営富岡製糸場の3号館内貴賓室に飾られているブリュナ(後列右から2人目)一行の写真
 富岡町(現富岡市)に官営富岡製糸場の建設が決まった一八七〇(明治三)年十月中旬。敷地選定から中心的役割を担い
、のちに同製糸場で首長に就く仏人ポール・ブリュナは、地元で座繰り製糸技術のある女性四人を雇い、ある試験を実施し
た。

 一石分の繭を買わせると、国内で盛んだった座繰りを三十日ほど続けさせ、その様子を自らの目で観察したのだ。良質な
生糸を大量生産するため器械製糸機の導入を唱えた人物が、なぜ日本在来の製糸方法を見る必要があったのか。

 渋沢史料館(東京)所蔵の龍門雑誌第六十号に掲載された、同製糸場初代所長の尾高惇忠(一八三〇−一九〇一年)の演
説「製糸ノ沿革」の中に、当時の様子が紹介されている。試験の目的を聞かれたブリュナはこう答えたという。

 「是デ今度彼方ニ注文スル所ノ機械ヲ成丈日本ノ風ニシテ在来ノ業ヲ変ジナイ様ニ欧羅巴風ニ移スト云フノ便宜?」

 器械製糸の導入にあたり、少しでも早く慣れさせようと、できるだけ従来の座繰りの方法に近い形を検討しようとしたい
う姿勢がうかがえる。この試験を参考に母国へ器械を発注、従来の欧州式を改良させて日本人体形に合うように高さを変え
、揚げ返し機を取り入れた。

 ここで特徴的なのが揚げ返しの技術だった。当時欧州の器械製糸は、大枠に繰った糸をそのまま次の工程に送る「大枠直
繰式」が主流。だが、湿度の高い日本で同じ方法を取ると、糸が膠着(こうちゃく)してしまう恐れがあった。
そこで、ブリュナは在来の座繰りにヒントを得て、小枠に繰った糸を大枠に揚げ返す「小枠再繰式」が最適と判断した。

 再繰式は日本独特のものではなく、この時期以前の欧州にあった。富岡製糸場調査検討委員会委員を務める東京大大学院
人文社会系研究科文学部(日本近代史)の鈴木淳助教授(44)は、人物像を含めて説明する。

 「ブリュナは再繰式を知っていて、富岡の状況を見て最適な技術を取り入れた。自分が糸を繰るわけではないが、試験を
見てどういうものがいいのか判断している。柔軟性に優れた人」

 生糸検査人として来日しながら首長という大役を任されたのは、システムとして製糸工場を理解していたからだといわれ
る。器械製糸に関する豊富な知識があったからこそ、日本に適した形態を選ぶことができたのだ。

 大日本蚕糸会は一九〇七(同四十)年一月二十七日付で、ブリュナに金賞牌(きんしょうはい)を贈っている。表彰文に
は次のような功績が記されている。

 「小枠再繰式ヲ採用シテ糸縷(しる)ノ膠着ヲ防キシカ如キハ実ニ湿気ノ過度ナル本邦ノ気候ニ適合シタル卓見ニシテ事
後幾多ノ製糸場勃興スルモ皆範ヲ此式ニ則ルニ至リ?」

 日本に最適な器械製糸方法を選んだ見識を評価するとともに、富岡製糸場にならって、手工業的技術からの脱皮し次々と
誕生した器械製糸工場の礎となった貢献度に対する最大の賛辞である。

 しかしブリュナがこの金賞牌を手にしたかどうかは定かではない。表彰前年九月、富岡の次に赴任した上海からの帰途で
日本に立ち寄り出国した後、行方が分かっていないからだ。同会は、そうした状況を知っていてもなお、報奨を与えるべき
功労者として敬意を払ったのかもしれない。

 座繰りから器械製糸へ−。日本の製糸業にとって、自動化という“産業革命”は大きな転換期だった。碓氷製糸農業協同
組合(安中市松井田町)で動き続ける繰糸機の系譜をたどれば、ブリュナが手掛けた再繰式につながる。一人の西洋人がま
いた種はしっかり根づき、百三十年以上の時をへても花を咲かせている。

    (千明良孝)

ポール・ブリュナ 1840(天保11)年、仏ドローム県ブール・ド・ペアージュに生まれる。絹織物が盛んだったリヨンで働いた後、生糸
貿易会社のヘクト・リリアンタール社が横浜に構えた蘭八商会に生糸検査人として派遣された。

 富岡製糸場の建設計画にあたり、70(明治3)年に明治政府と仮雇用契約を締結。敷地選定に奔走して建設地を決めた後
、首長として71(同4)年1月から5年間の契約を結んだ。器材購入のため一時帰国している時期はあるが、契約期間満了
まで職責を全うした。

 80年代前半に中国・上海にあった米のラッセル商社に招かれ、八百人繰りの器械製糸場建設に貢献。1906(同39)年
8月に母国へ戻る途中で日本に立ち寄り、富岡製糸所などを訪れた。9月下旬に日本を出発したが、これを最後に足取りは
つかめていない。
 (2月18日掲載)