| 「ぐんまルネサンス」 第2部 | ||||||||
| 4 渋沢 栄一(下) | ||||||||
、島村勧業会社設立を助言する渋沢栄一の書簡が残っている。書簡は武平から数えて四代目にあたる信孝 さん(59)が受け継ぎ、大切に保管している。手紙には一八七二(明治五)年二月六日の日付がある。当 時、渋沢は三十二歳。数日後には明治政府の大蔵少輔事務取扱に昇任。事実上の大蔵次官に上り詰めた。 島村勧業会社は農民が組織した日本初の蚕種株式会社だ。手紙にはこう書かれている。 ◇ ◇ 〈定款に従って規則を定め、会社中がこれを順守すれば、随分みなさんの利益につながるでしょう。全 国にも波及し得ることと思いますので、ぜひ今年から施行されますように〉 渋沢は資金援助をはじめ、県を通じて政府に申請されれば迅速に処理することを約束。関与が明らかに なると設立に支障が及ぶ恐れがあるとして、決して他言しないよう求めている。 遠戚関係にあった渋沢と武平は、特別結び付きが強かった。七一年に昭憲皇太后が宮中でご養蚕を始め る時、お世話役として武平を推薦したのも渋沢。武平が亡くなって約二十年後、渋沢は「出がら繭の記」 と題する武平への追悼文を書いた。 田島家に伝わる渋沢の思い出について、信孝さんの妻、絹子さん(58)は「『出がら繭の記』を書いて もらった時、栄一さんは鯉(こい)こくが好きだというので、おじいさんが利根川のコイを持ってお 礼に行った。そしたら栄一さんは風邪で伏せっていて、奥さんが対応してくれたという話を聞いたことが ある」と教えてくれた。 渋沢が生まれた武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市)は、島村とわずか一キロほどの距離にある。血洗島は 蚕種と染料の藍(あい)玉製造で潤い、島村と同じく学問を尊ぶ気風が強かった。両村には強い一体 感があった。 ◇ ◇ 渋沢は仕官後、故郷とのつながりを大切にした。七二年に設立された島村勧業会社はヨーロッパで会社 組織を学んできた栄一が定款をすべて考え、設立を指導した。同社は七八年、東京に出張所を開設して販 路を拡大。島村は日本を代表する蚕種産地としての名を不動のものとした。 だが、勧業会社は外国の蚕種買い控えで業績が悪化。イタリアでの直接販売を決断する。七九年から八 二年にかけ計四回行われた直輸出は、大蔵省時代の渋沢と深い関係にあった三井物産がわざわざミラノに 出張所を開設して蚕種販売に協力した。両社を仲立ちしたのは渋沢だと見られている。 島村の住民は一昨年、地域に残る養蚕家屋群の保存・活用を目指そうと、ぐんま島村蚕種の会(田島健 一会長)を結成した。結成の原動力となったのは、明治時代に命懸けで海を渡った先祖たちの心意気には 負けられないとの熱い思いだった。 副会長の栗原寿郎さんは、渋沢が島村という地域に与えた影響をこうとらえる。 「渋沢がいなければ、あるいは弥平(「養蚕新論」の著者)や武平といった田島家の人材と渋沢がかみ 合わなければ、イタリアまでとても蚕種を売りになんて行けなかった。渋沢を抜きに、島村蚕種はこれほ どの隆盛を極められなかったろう」 渋沢が仕えた明治政府は、外貨獲得の主力品だった生糸と蚕種を手厚く保護した。七八年までに出した 法律や訓令は六十七件。その多くに渋沢が知恵を出している。 (小田川浩道) ◎渋沢栄一◎1840(天保11)年、武蔵国榛沢郡血洗島(現深谷市)の農家に生まれる。家業の畑作、藍玉の製造販売、養蚕を手伝う一方、幼いころから尾高惇忠に論語を学んだ。 63年ごろ、徳川幕藩体制に疑問を抱き、尊王攘夷(じょうい)に奔走したが、一橋家に仕える平岡円四郎のはからいで一橋家に仕官、後に幕府に仕えた。67年には第15代将軍、徳川慶喜の弟、徳川昭武がパリ万博出席のため渡欧するのに随行。約1年間の滞在で、ヨーロッパ文化を吸収した。 帰国後、静岡で銀行と商社を兼業する「商法会所」を設立したが、大隈重信の説得で明治政府に出仕、財政整備などに当たった。しかし、財政運営をめぐり大隈ら政府高官と対立。辞職してからは、明治を代表する実業家として活躍した。 (2月4日掲載) |
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