「ぐんまルネサンス」 第2部
3 渋沢 栄一(上)
 
埼玉県深谷市にある生家(通称・中の家)の庭先に立つ渋沢栄一 =1927年10月撮影
 「はなはだ失礼ですが、みなさんは蚕というものを全然ご存じない。おっしゃっていることが間違ってばかりいます」
 
 明治政府が発足して間もなく、渋沢栄一は大隈重信や伊藤博文ら政府高官に向かって、きっぱりと指摘した。生糸改良の議論をしていた時のことだった。
 
 当時、生糸は外貨獲得の主力品だったが、粗製乱造で信用が落ち、糸価が下落していた。器械製糸導入による品質向上は、国力を付けたい政府の緊急課題。大隈からの要請で出仕した渋沢はこの時、大蔵少丞として議論に加わっていた。

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 明治政府には薩摩藩や長州藩などの下級武士出身者が多かった。大隈や伊藤はもちろん、渋沢を除く全員が製糸どころか、養蚕のことさえ知らなかった。
 
 指摘に対し、大隈は「君はほらを吹くのか」と気色ばんだ。だが説明すると、あっさりかぶとを脱いだ。大隈の決断は速かった。「それなら貴様が主任になって大いにやれ」。官営製糸場建設は渋沢に一任されることになった。
 
 「論語とソロバン」という言葉に代表されるように、後に儒教精神に基づいた経済活動を唱える渋沢が富岡製糸場の設立に関与したことは、製糸場の生産活動に高い理念と精神性を持たせることになった。
 
 製糸場は外貨獲得の使命を背負いながらも、経営は常に公益を目指した。模範工場としての役割を忘れず、経営診断で作業効率の悪さを指摘されながらも、地方の製糸業発展のため出身地に帰っていくベテラン工女を引き留めなかった。

 建設を命じられた渋沢は、次々と重要案件を決断した。政府の法律顧問でフランス人のジブスケに相談すると、紹介された技師ポール・ブリュナが出した見込書を元にブリュナの技量を見極め、契約を決めた。
 
 建設現場での実務は、杉浦譲・地理権正や尾高惇忠・庶務少佑を起用した。尾高は学問の師という旧知の間柄であり、妹ちよは渋沢の妻だ。後に尾高を初代所長に据えたのも、国の大事業を信頼できる人物に任せたいという渋沢の意向が働いた。
 
 富岡製糸場が操業を開始して半年後、渋沢は歳入を無視した各省の予算要求に嫌気が差して辞職。かねての願いだった実業界に身を投じた。

 だが、渋沢の実業界での活躍は、製糸業の発展を在野から支援した側面がある。渋沢は生糸の輸出拡大には金融と為替の整備が急務だと考えていた。辞職後、最初に設立した第一国立銀行には、金融支援と為替整備を後押しする狙いがあった。
 
 渋沢の調査研究に取り組む学者らでつくる渋沢研究会代表の片桐庸夫県立女子大教授は、渋沢がたくさんの企業を設立しながら近代日本の産業基盤を整え、公益を追求したことを高く評価する。
 
 「渋沢は富国強兵の富国を考えた。当時の日本にとって、生糸にまさる輸出品はなかった。今で言うと(基幹産業の)自動車やコンピューターと同じ感覚を生糸に持っていた。だから生糸の品質向上を図り、輸出の花形として外貨を獲得しようと思ったはずだ」

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 後年、渋沢はこう語っている。

 「私は蚕の飼い方から糸の事、貿易の事をやったから、いわば農工商に通じている。考えてみると当時海外に輸出した生糸は三万梱(こうり)約九百九十dで微々たるものだったが、昨年(年代不明)は七十万梱(約二万三千百d)を生産したと聞いて驚いた。今昔の感に堪えない」
 
 実業界をリードした渋沢は、約五百社の企業設立にかかわるなかで、生涯、蚕糸業に特別の思いを抱き続けた。

(小田川浩道)


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渋沢栄一◎1840(天保11)年、武蔵国榛沢郡血洗島(現深谷市)の農家に生まれる。家業の畑作、藍玉の製造販売、養蚕を手伝う一方、幼いころから尾高惇忠に論語を学んだ。

 63年ごろ、徳川幕藩体制に疑問を抱き、尊王攘夷(じょうい)に奔走したが、一橋家に仕える平岡円四郎のはからいで一橋家に仕官、後に幕府に仕えた。67年には第15代将軍、徳川慶喜の弟、徳川昭武がパリ万博出席のため渡欧するのに随行。約1年間の滞在で、ヨーロッパ文化を吸収した。
 
 帰国後、静岡で銀行と商社を兼業する「商法会所」を設立したが、大隈重信の説得で明治政府に出仕、財政整備などに当たった。しかし、財政運営をめぐり大隈ら政府高官と対立。辞職してからは、明治を代表する実業家として活躍した。
 (1月21日掲載)